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詩人 吉野 弘さんが亡くなった

詩人、吉野弘さんが亡くなられたそうだ。享年87歳。本当かな? 僕が1番好きな詩人で、1番好きな詩は吉野弘さんの「生命(いのち)は」という詩だ。 僕が唯一暗唱できる詩。

「夕焼け」という詩は高田渡さんがアレンジして歌っています。

  「夕焼け」 吉野 弘

  いつものことだが   電車は満員だった。   そして   いつものことだが   若者と娘が腰をおろし   としよりが立っていた。   うつむいていた娘が立って   としよりに席をゆずった。   そそくさととしよりがすわった。   礼も言わずにとしよりは次の駅で降りた。   娘はすわった。   別のとしよりが娘の前に   横あいから押されてきた。   娘はうつむいた。   しかし   また立って   席を   そのとしよりにゆずった。   としよりは次の駅で礼を言って降りた。   娘はすわった。   二度あることは と言うとおり   別のとしよりが娘の前に   押し出された。   かわいそうに   娘はうつむいて   そして今度は席を立たなかった。   次の駅も   次の駅も   下唇をキュッとかんで   からだをこわばらせて――。   ぼくは電車を降りた。   固くなってうつむいて   娘はどこまで行ったろう。   やさしい心の持ち主は   いつでもどこでも   われにもあらず受難者となる。   なぜって   やさしい心の持ち主は   他人のつらさを自分のつらさのように   感じるから。   やさしい心に責められながら   娘はどこまでゆけるだろう。   下唇をかんで   つらい気持ちで   美しい夕焼けも見ないで。

でも、もしかしたら「祝婚歌」という詩が1番有名かもしれない。 結婚式で聞いた事ありません?ないかな。

  「祝婚歌」  吉野 弘

  二人が   睦まじくいるためには   愚かでいるほうがいい   立派すぎないほうがいい   立派すぎることは   長持ちしないことだと   気付いているほうがいい   完璧をめざさないほうがいい   完璧なんて不自然なことだと   うそぶいているほうがいい   二人のうちどちらかが   ふざけているほうがいい   ずっこけているほうがいい   互いに非難することになっても   非難できる資格が自分にあったかどうか   あとで   疑わしくなるほうがいい   正しいことを言うときは   少しひかえめにするほうがいい   正しいことを言うときは   相手を傷つけやすいものだと   気付いているほうがいい   立派でありたいとか   正しくありたいとか   無理な緊張には   色目を使わず   ゆったり ゆたかに   光を浴びているほうがいい   健康で 風に吹かれながら   生きていることのなつかしさに   ふと 胸が熱くなる   そんな日があってもいい   そして   なぜ胸が熱くなるのか   黙っていても   二人にはわかるのであってほしい

僕は3歳くらいから高校2年まで埼玉県の北入曽というところに住んでいた。 そういえば、と後から認識したことだったが僕が通っていた中学校の校歌の作詞は吉野弘さんだった。 これも後から知ったことだが、吉野弘さんは北入曽に住んでいたのだ。 吉野弘さんは校歌や合唱曲の作詞もわりとやっているらしい。

僕は詩が好きだが、詩というものについて詳しくない。正直、吉野弘さんにだってたいして詳しくない。 でも、「詩が好きです」とか「詩の朗読もたまにやります」と人に言う事はあって、 「どんな詩が好きなの?」と聞かれることがある。 そういう時に詩の内容を自分の言葉で説明したくないなぁと思ったことがある。 詩人が一字一句考えて作ったものを、自分の言葉で「こんな感じ」と説明してしまったらなんか違うなぁと思ったのだ。 (でも実際、自分の言葉で説明してしまうことは今でもあるし、

いきなり暗唱したらそれはそれで妙な雰囲気かもしれない・・・

ま、たまには空気を読まないことがあってもよいと思う)

とにかく、一つでいいから自分の一番好きな詩を暗唱できるようになりたいと思ったのだ。 それで、覚えるために電車の中で、お風呂の中で僕はぶつぶつと繰り返し唱えた。 (あぶない人だと思われたかもね・・・)

この詩を人前で暗唱したのは1度だけある。とても緊張した。 それで思ったことは、紙に書かれている文字を朗読するのと暗唱するのは違うということだ。 そりゃそうだろうと思うでしょうが、そうなんですよ。 僕の場合、紙に書かれている文字を朗読すると、

文字を目で追うこととそれを声にすることにエネルギーが使われていっぱいだ。 暗唱すると、文字を目で追うことをしなくて良い分、頭の中に映像をイメージすることができた。

例えば、「生命は」の詩の中にこんな箇所がある。

  花が咲いている   すぐ近くまで   虻(あぶ)の姿をした他者が   光をまとって飛んできている

この時、僕は花が咲いているのをイメージしながら声に出すことができた。 映像的に言うと、視点は黄色い花を少し斜め下から見上げていて、 花の向こうに太陽があり、そこにやってきた虻が太陽を背にシルエットとなっている感じだ。 文章にすると二行も必要だけど、イメージするのは一瞬だった。

今日はお風呂の中で「生命は」を暗唱したいと思う。 路地を歩いていてどこかのお風呂からぶつぶつ聞こえてきたら、そこは僕の家かもしれません。なんてね。 でも忘れちゃうかもしれない、とも思う。 よし、ひとまずはコピペせずに書いてみよう。(ドキドキ・・・)

  「生命は」 吉野 弘

  生命は   自分自身だけでは完結できないように   つくられているらしい   花も   めじべとおしべがあるだけでは不充分で   虫や風が訪れて   めしべとおしべを仲立ちする

  生命は   その中に欠如を抱き   それを他者から満たしてもらうのだ

  世界は多分   他者の総和   しかし   互いに欠如を満たすなどとは   知りもせず   知らされもせず   ばらまかれているもの者同士   無関心でいられる間柄   ときに   疎ましく思うことさえも許されている間柄   そのように   世界がゆるやかに構成されているのは   なぜ?

  花が咲いている   すぐ近くまで   虻の姿をした他者が   光をまとって飛んできている

  私も あるとき   誰かのための虻だったろう

  あなたも あるとき   私のための風だったかもしれない

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