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「嘘つきは誰だ!?」

今日は4/1。エイプリルフールということで「嘘」についての屁理屈です。

長いので時間に余裕がある時にでも読んでね。

さて、みなさんの「マイ・フェイバリット・パラドックス」は何ですか?

私の好きなパラドックスはエピメニデスのパラッドックスです。

『クレタ人であるエピメニデスが「クレタ人は嘘つきだ」と言った』という有名(?)なものです。

こんな矛盾だらけの不条理な世の中。

ストレスにまみれて生きていかなきゃならないなんてさ、

パラドックスのひとつやふたつ無理にでも好きにならなきゃやってられねーよ!

って思うでしょ。みんな。

いや、パラソルは関係ない。

ソックス? そうだよねー おしゃれは足元から。

いやいや、靴下は穴が開いてたってかまわない。

「パラドックス」っていうのは簡単に言うと「矛盾」や「逆説」のこと。

エピメニデスのパラッドックスとは、

クレタ人のエピメニデスが、「クレタ人は嘘つきだ」と言ったというもの。

もしエピメ二デスの言った「クレタ人は嘘つきだ」ということが本当であれば、

クレタ人であるエピメ二デスも嘘つきということになる。

エピメ二デスが嘘をついたとすると「クレタ人は嘘つきだ」という言葉も嘘になり、

「クレタ人は嘘つきではない」ということになる。

「クレタ人は嘘つきではない」とすると、

エピメ二デスが「クレタ人は嘘つきだ」というのは本当になり・・・

と、延々と繰り返して、結局嘘つきかそうでないかは決定できないのである。

ややこしい生き物だねー エピメニデス。及びクレタ人。

どうしてこんなことになるかというと、

「個人」であるエピメ二デスが「自身も所属する集団」であるクレタ人について嘘つきと言及しているからだ。

さて、話はちょっとずれます。

有名なあの曲の一節。

戦う君の唄を 戦わない奴等が笑うだろう  「ファイト!/中島みゆき」

知ってるよね? 知らない人もいるかもなぁ。

この曲の前述の部分。サビです。

聞き手は「戦う君」に感情移入します。「聞き手=戦う君」ですね。

カラオケで歌うなら「歌い手=戦う君」ですね。

じゃあ、戦わない「奴等」って誰だ?

そもそも生きていて何かと戦わない人間なんているのか。

全くいないとはいいませんが、99%の人は何かと戦い、苦しむことがあるでしょう。

戦わない1%の人は置いておいて、

つまりは「戦わない奴等=戦う君の集まり」だと言うことができるんじゃないでしょうか。

戦う君はいつだって戦わない奴等になりうるということ。

一節を抜き出して曲を解釈することもできないので、

曲全体についての解釈ではなく、これはあくまで本テーマに関する引用です。

そうそう、つまりは状況によって変わるということですね。

個人である分には「戦う君」であり、

それが集まった時には「戦わない奴等」になりうるということ。

もしかしたらエピメ二デスの言わんとしていることはこういうことなんじゃないでしょうか。

『クレタ人であるエピメ二デスが「クレタ人は嘘つきだ」と言った』

→「私は嘘つきでもなければ正直者でもない。状況によって変わるのだ」

状況。つまりは「個人」か「集団」かということですね。

これはやっかいな話になる予感。

何もすき好んでやるようなことじゃないよなぁ。

これを聞いて誰が喜ぶの?って感じがするけど、終わらせなきゃいけないのでやります。

いやでも、決して嫌いなわけじゃない。珍味みたいな感じ。なんだお前。いや、俺。

「集団」は単なる「個人」の集まりではないと思います。

それは、私の中に「バンドの一員である」とか「会社の一員である」という集団に属する意識があって、思考や行動に日常的に影響を与えているからです。みんなもそうでしょ?

簡単に言うと自分の中に集団がいる感じ。

だから、

私の中の個人的意識(天丼食べたいなぁ)

私の中の集団的意識(みんな鍋焼きうどん頼んでるじゃない)

私「(自分内会議の結果)私もそれでー(鍋焼きうどんで)」

みたいなことってありますよね。

うまいこと言えませんが集団に合わせようとする意識。空気を読む、みたいな。

実際食べてみたら、「鍋焼きうどん美味いなぁ よかったー」なんてね。

そんなこと言い出すと結構複雑なんですよね。人間。

我の中に「個人」と「集団を意識する個人」がいて、

そしてその我が集まって「集団」ができているという感じ。

そういう意味で「個人」と「集団」をぱっきり2つに分けるのは無理があるんじゃないかなぁ と思うんです。

また、「集団」なくして生きていける世の中ではないし、

本当の意味での「個人」が「この世に私ひとりになってしまった状況」だとして、そんなことはおおよそありえないし。

生きていく上で必要なものとして「個人」と「集団を意識する個人」、「集団」はあるのだと思います。

その中で「モラル」や「利害」「体面」「快楽」などいろんな要素を元に、一番しっくりくる思考や行動を選ぼうとしてバランスをとったり、とれなかったりしているんだと思います。

まったく、「本音と建て前」なんて言葉がありますが、一体何が本当で何が嘘なんだ!?

きぃーっ

でも、ちょっと勇気があれば「天丼ください」って言えるんですよね。

天丼ならまだしも、話題によっては個人を通すことで「強調性がない」だとか「空気を読んでいない」だとか言われるかもしれないですが。

たまにごく自然に個人を通すことができる人っていますよね。

そういう人ってすごいと思う。

もしかしたら、昔から個人を通す人は「奇人」「変人」「わがまま」だのと言われたりしたのではないでしょうか。

いいじゃない。別に言われたって。気にしなければ。

一体誰が言うんだ? 世間? 「世間とは君じゃないか」なんちゃって。

さて、また話がずれます。童話「裸の王様」。アンデルセンの童話だよ。知ってるよね?

新しい服が大好きな王様の元に、二人組の詐欺師が布織職人という触れ込みでやって来る。彼らは何と、馬鹿や自分にふさわしくない仕事をしている者には見えない不思議な布地を織る事が出来るという。王様は大喜びで注文する。仕事場に出来栄えを見に行った時、目の前にあるはずの布地が王様の目には見えない。王様はうろたえるが、家来たちの手前、本当の事は言えず、見えもしない布地を褒めるしかない。家来は家来で、自分には見えないもののそうとは言い出せず、同じように衣装を褒める。王様は見えもしない衣装を身にまといパレードに臨む。見物人も馬鹿と思われてはいけないと同じように衣装を誉めそやすが、その中の小さな子供の一人が、「王様は裸だよ!」と叫んだ。ついにみなが「王様は裸だ」と叫ぶなか王様一行はただただパレードを続けた。

なお、日本でのタイトルが「裸の王様」なので、何も身につけていない全裸だと思われている節があるが、実際のところは下着だけは身につけている。絵本版などの挿絵もそうなっている。(wikipediaより)

見えもしない衣装を身にまとう王様のパレード。下着は身につけている。

二人の詐欺師。愉快痛快な面持ち。

いやー 全裸じゃなくてよかったね!王様。 ぎりぎりセーフ。

ってアウトですよ。アウト。

王様、一見冷静に見えるけれど心の中では号泣パレード。

「あるのにない、ないのにある。さすが王様。哲学的現代アートとしてのファッションを確立したのですね。『4分33秒』のジョン・ケージも真っ青ですよ。」

という側近の慰めも全く甲斐なく、みじめな気持ちがますます強くなるばかりである。

子供が「王様は裸だよ!」と叫ばなければ、このパレードは「王様は素晴らしい衣装だった。そりゃあもう言葉では言い表せないくらい。」と民衆に褒め称えられていたのであろう。

まさに「空気を読む」というやつですね。

「本当」と「嘘」が微妙なバランスで揺らいでいたわけだ。

王様にしたって本当は衣装なんてないことに気づいていたのだけれども、

馬鹿だと思われたくない「見栄」が先行して詐欺師に乗せられてしまったのだ。

民衆も同じ。しかも一番偉い人たちが率先してやっているんだから従わざるをえない。

きっと充分現代にも当てはまりますよね。

「本音と建て前」がありつつも「本当のように見えること」を作っているのは専門家や偉い人や、時代のリーダーたちなのである。または詐欺師。医者のふりした患者。

時代が変わって人も流行も変われば、本当のことなんてそっくりそのままひっくり返ることだっていままでにいくらでもあったはずだ。

じゃあひっくり返ったからって、「あんたはあの時嘘をついていたじゃないか」なんて責められるかというと、責められるのはごく一部の人。戦争責任を問われるような人。だいたいの人がみんな一緒にひっくり返っているのだから責めようも責められようもないのである。

やっぱり本当も嘘も状況によって変わるのだ。

みんなと一緒にころころしてたって責められはしないのだから、それを望むならそうしてたって構わないし、逆にたとえ今の主流に沿わなくたって、これから何が主流になるか分からないのだから気にしなくて済む人は気にしなくていいのだ。

よし、またさらに脱線します。

ここらでお茶でも飲んで一息ついてね。

童話「狼と羊飼い」。こちらはイソップ寓話。知ってるよね?オオカミ少年の話。

「嘘」というのは童話の典型的なモチーフなわけですね。

羊飼いの少年が、退屈しのぎに「狼が出た!」と嘘をついて騒ぎを起こす。大人たちは騙されて武器を持って来るが、徒労に終わる。少年が繰り返し嘘をついたので、本当に狼が現れた時は大人たちは信用せず、誰も救援に行かなかった。そのため、村の羊は全て狼に食べられてしまう。

オリジナルでは嘘をつきつづけた少年自身が襲われて狼に食べられてしまう懲罰的な結末だが、近年は残酷さゆえ羊が食べられてしまう話になっているものが多い。また、実際にオオカミが人里で人を襲う事はほとんどない。(wikipediaより)

まったく、オオカミからしたらいい迷惑だよね。失礼しちゃうわ!

これは、嘘をつき続けていると周りから信用されなくなっちゃうよ、という教訓ですよね。

「狼と羊飼い」における少年の嘘と「裸の王様」における大人たちの嘘は性質が違います。

少年は嘘に振り回される大人たちを見て反応を楽しんでいた。「快楽」のため。

大人たちは見栄や上下関係で仕方がなく嘘に乗っかっていった。「見栄」や「立場」の保持のため。

そうそう。私たちは子どもの時も大人の時もいろんな理由で嘘をつくのだ。

余計なお世話だけど、どちらの話も結末がこのままでよかったよ。

例えば、「王様は裸だ!」と言った子どもが、大人たちが見栄や上下関係に固執するあまり、華々しいパレードの中で口封じのために袋叩きに合う。子どもの親もしつけがなっていないという理由で死ぬまで牢獄に入れられてしまう。パレードは賞賛の嵐の中、無事終了して王様はその名を後世にまで轟かせましたとさ。めでたしめでたし。

とか、

本当に狼が現れたので少年は家に隠れ、繰り返し聞かされた嘘のために少年の警告を信じなかった大人たちはみんな食い殺されてしまいました。少年は家族を、村のみんなを失い自分を責め続けながらひとりその生涯を生きたのでした。とか。

うーん、きついなぁ。でも、そちらの方が現実感があると感じるのは私だけでしょうか。

誰が、何を信じるべきなのか。

王様は自分の目を信じるべきであった。

大人は羊飼いの警告を信じるべきであった。

物語には出てこないが、少なくとも羊飼いの家族は嘘と本当を見分けたり、それができなければ毎回信じるべきだった。

(もちろん、そもそも羊飼いの嘘がいけないわけだが)

嘘か本当かを自分で判断することの他に、何を信じるのかということが重要なんじゃないだろうか。疑う気持ちももちろんだけど、必死こいて真偽を考えて、「よし、これを信じよう」というちょっとした決断みたいな。

その「信じる」「信じない」には理屈では説明しきれない心の動きがあるような気がします。

しっくりくるとか、こないとか、そういった肌の直観的、生理的な感覚。

客観的な事実と専門家や偉い人の説明は論理的で正しく見えるけれど、どうもしっくりこない。逆に、何の社会性も知識もない子どもが嘘みたいなことを言っているけれど、こちらの方がしっくりくる、なんて場合。どちらを信じますか?実際その判断を迫られる場面にいたら悩むのだろうなぁ。いや、もしかしたら悩むまでもなく論理的で正しく見える方を選ぶんじゃないだろうか。「僕もそれでー(鍋焼きうどんで)」みたいに。

さて、私がなぜこのことを引き合いに出したかと言うと、「狼と羊飼い」における少年の「嘘」と「警告」の境目が気になったからです。

狼が現れなければ少年の「嘘」は「嘘」のままであった。狼が実際に現れたので嘘は「警告」に変わった。

狼は少年の村の周りに以前から存在したのだが、少年にはそれが氷山の一角ほども見えていなっかたのかもしれない。

さて、さらに脱線。脱線も3回目になると、360度くるりんぱと元の場所に着地してくれればいいんだけど。

そうは問屋が卸しません。ここらでみかんでも食べてね。ポッキーでもいいよ。

さて、芸術の役割についてこんなことを言っている人がいます。

カート・ヴォネガット(作家)<坑内カナリヤ芸術論>

かつて炭坑労働者たちが坑内に漏れ出す有毒ガスをいち早く感知するための手段として、カナリヤを入れたカゴを持ち込んでいたことから生まれた考え。

カナリヤは繊細な生き物のため、有毒ガスがほんの少しでも漏れ出すと、人間が気づくよりも先に死んでしまうのだそう。ヴォネガット曰く、芸術家もこれと同じで、身の回りで起きつつある危険を察知して、バッタリと気絶することで危険を知らせるのが、その使命だというのです。もちろん、芸術家は気絶する前に「作品」という形で後続の人々にその危険を知らせなければならないわけです。

ふむふむ。なるほど。

絵画で言えば岡本太郎が原爆をテーマに描いた「明日の神話」なんかがそうでしょうか。

明日の神話/岡本太郎

とてつもなく大きな壁画で渋谷駅の京王線連絡通路で見ることができます。

3.11の大地震、津波のの影響で起きた福島原発の事故を受けてアート集団「Chim↑Pom(チンポン)」が「明日の神話」の隅に福島原発の事故を表現したであろう絵を上から貼り付けたことがニュースになりました。

これは剥がされたそうですが、これもカナリヤ的な行動芸術だといえるんじゃないでしょうか。

「明日の神話」に張り付けられた「Chim↑Pom」の「福島原発」

原発は安全だと推進派の政治家、学者は嘘を言っていた。「利権」のため。

福島原発の事故以降、全く安全じゃないことがわかった。

それは氷山の一角に過ぎないのだろう。

反対派の人は事故以前からずっと危険性を訴えてきた。

事故後も脱原発を訴える学者、芸術家、市民団体がデモや署名活動をしている。

しかし、国は「原発は安全だ」「放射能に危険性はない」とは明言せずに、原発再稼働の方向を示している。

事故から1年経った今でも福島の避難区域の人たちは仮設住宅に住んでいる。

人体への影響も明言されない。除染の目途は立っておらず、それがどこまで可能なのかも分からない。

ふるさとの記憶、風景、土地を奪うことをお金で保証なんてできるはずもないのに。

またそれを繰り返そうとしているのだという事。私はそれを「生命の敵」だと思います。

人間はつらいことを忘れていくだろうから、

怖いのは危機感が風化していくなかで、なし崩し的に進んでいくことですね。

もちろん私と避難区域の人たちの危機感に差はあるのだと思いますが。

原発の問題は嘘とか本当の範囲で考えるには無理があると思いますので、ここまでで。

そろそろ、この文章のまとめに入ります。

たぶん本当か嘘かが問題ではないということでしょう。状況によってどちらにでもなる。

「利害」「見栄」「立場」「信念」など様々なもののバランスで結論づけられる。

またはアンバランスだろうと「正義」のふりをして「利害」のためだけにつき進んでいくことだってできるのでは。「集団」になると特に。罪悪感や責任感、責任の所在が曖昧になるからだろうか。

「客観的事実」なんて言葉もありますが、100%客観的事実なんてないでしょう。

「証拠とされているものから専門家たちが論理だてて討議し、説明し、みんながおそらく本当だろうと思うもの」が「客観的事実」なんですよね。

事実と呼ぶには隙があるのだと思います。

芥川龍之介の「藪の中」なんて、何が本当で嘘なのか分かりませんもんね。

でもその方が私は現実的に感じるのです。

「これはそういうものだから」なんて具合に白黒はっきり結論づいているものの方が意図を感じます。

何かしら結論づけていかないとどうにもならないことがたくさんあるとは思いますが。

嘘か本当かではなく、「誰が何のために言うのか」が大事なんじゃないでしょうか。

私が誰のために何をするのか、ということ?

何を信じるのか? という話でもあると思います。

私は何を信じるのか、ということ?

神か。金か。経験か。知識か。愛か。

そんな大げさなことじゃなくても、身の回りの家族、友人、知人、自分を信じればいいのだと思います。

いいじゃない、集団と違う意見を言ったって。たとえ裏切られたって傷つけられたって嘲笑われたって。

ていうか、こんなんでいいんだろうか?こんなこと書いてないで、もっとやらなきゃいけないことが他にあるんじゃないだろうか。洗濯とか。明日は妹に手紙の返事を書こうと思う。

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